新たなる成長を目指して(株式会社富士テクノマシン 代表取締役 飯室肇様 インタビュー②)

中学生時代からの経験が地域貢献に生きる

株式会社富士テクノマシンは、大型薄物加工をはじめとした金属加工を行うメーカーである。これまでに同社は思い切った投資やノウハウの蓄積でさまざまな事業環境の変化に対応してきた。また、近年ではコロナ禍を契機に自社開発製品の販売を行うなど、新たな取り組みを展開している。

本特集では時代の流れに適応してきた同社の歴史と今後の展望などについて、代表取締役の飯室肇氏(以下、飯室社長)に話をうかがっていく。第二回は、同社の沿革と地域とのつながりについて取り上げる。

株式会社富士テクノマシン代表取締役 飯室肇氏

 

職人ののれん分けからNC制御の時代へ

御社の創業の経緯を教えてください。

飯室社長:当社が開業したのは1977年で、私が小学生の時です。創業者である父は1942年生まれですので、30歳代半ばだったはずです。当時は、技術者がのれん分けのような形で独立することが一般的で、父もそのようにして独立しました。元々父が勤務していた会社の現在の社長には、私が子供の頃からよくしていただき、今でも取引があります。とても頭の良い方で、技術的な相談などもよくしています。その会社は高精度加工技術が強みで、のれん分けした当社もそれを引継ぎ、高精度を強みにしています。
最初は下丸子で個人事業として操業していたのですが、のれん分けですので規模も小さく、汎用フライス1台と汎用旋盤1台とボール盤ぐらいで、場所もかなり狭い掘立小屋のようなところでした。
その後、NCフライス盤を入れることになり、機械を置く場所を確保するために下丸子から矢口渡に移転しました。NCフライス盤の導入は画期的でした。それまで職人の手間賃として1日1万円ぐらいの工賃でやっていたのが、自動化により何十倍も対応できるようになりました。翌年には早くも3台に増えていたのを覚えています。

 

社長が入社されたのはいつ頃ですか?

飯室社長:私は子供の頃から父の仕事を見ており、中学生になってからは仕事の手伝いもしていました。タップという工具を使って、ネジ穴を立てる作業があるのですけれども、そうした作業をボール盤を使ってやったりしていたわけです。
NCフライス盤を導入したとき、私は高校1年生ぐらいでしたが、これまで職人の熟練の技で操作していた汎用フライス盤と違い、数値制御のためのプログラムやコーディングなど新しいことが多くありました。1980年代はパソコンも普及していない時代でしたから、40歳近かった父は難しさを感じたようで、一緒に講習を受けてくれと言われて、高校生ながら講習を受けました。
実際に、若い分覚えが早く、私が教えながらNCフライス盤の導入を進めました。当時は、スーパーでレジをやっても時給320円ぐらいの時代でしたが、製造を手伝うと、時給にして800円ぐらいはもらえました。その時給は家族だから優遇されたわけではなく、それほど仕事があって人手が足りなかったのです。高校生だった私はバイクが欲しかったため、夏休み中ずっと当社でアルバイトをして、ホンダのVTというバイクを買うことができました。

そうした手伝いは楽しくやっていたのですが、将来この仕事をやりたいとは思っていませんでした。私たち家族は大田区ではなく日吉に住んでいたのですが、日吉はサラリーマンの街で、近所ではみなスーツの人ばかりです。朝、作業着を着て出勤する人など誰もいませんので、格好悪く思ってしまっていました。さらに、バブルの真っ只中で旅行会社が絶好調の時代でしたから、私も将来は旅行会社に勤務したいと考えていたわけです。
一方、父からは、資本主義の世界なのだから自分で商売をやった方がよい、と言われていました。そこで、大学を卒業したときに、就職ではなくアメリカへの留学という手段をとりました。一旦アメリカで勉強してくれば、というわけです。アメリカに行って最初は語学を学び、その後コンピューターサイエンスなどを勉強していたのですが、そうしている間にバブルがはじけて、私も日本に呼び戻されて当社に入社しました。
私が入社したのは1992年です。その時、会社では現在の当社の売りの1つである大型薄物を加工するためのマシニングセンタを導入するタイミングでした。大型の機械を入れるため、さらに広い場所が必要だったため、場所も矢口渡から南蒲田の現在の場所に移転しました。
私は、マシニングセンタの購入先である東芝機械株式会社(現芝浦機械株式会社)に出向という形で行きました。給料は自社から出て、機械の使い方を覚えるための出向です。
当時はそのような形態は一般的だったようで、沼津の工場に私と同じような方が3人ぐらいいたと思います。平日はそちらで勉強して、土曜日は自社が営業しているのでこちらで仕事をして、日曜日に沼津に戻る、という生活を8ヶ月間ぐらいしていました。
そんな生活をしていたので、機械操作はすっかり習熟することができ、また、整理整頓の仕方など、町工場と大手企業の工場の差も実感できるよい機会にもなりました。機械メーカーとは、今でも講習会に参加するなどつながりがあります。
そのようないきさつで私が大型マシニングセンタを担当したわけですが、当社の仕事の多くがそのマシニングセンタを使ったものになり、私は土日も働きましたし、間に合わなければ夜中もずっと働くという状況で、その頃が一番働いていた時期ではないかと思います。
その頃私以外の一番若い方が40歳ぐらいで、80歳を超えている方もいらっしゃいました。角窓をヤスリだけで仕上げてしまう、今では真似できないマジックのような技術を持つ職人達です。そうした手で仕上げたものが今でも社内に残っていますが、本当に凄いと思います。
年齢も私より上で、実力もある方々の中でしたので、その中で2代目だからと馬鹿にされないように、一生懸命仕事をしました。
少しでも早く追いつこうと、ひたすらメモをたくさん取りました。現在でもそのメモが残っています。

若手時代の飯室社長が書いたメモ。左上に1992年6月9日の日付(米国式表記で6/9/92)


私が31歳の時、父が59歳で亡くなり、突然の事業承継となりました。すでに業務の多くは経験していたので、大きな混乱はありませんでした。それから24年が経ち、父が社長をしていた期間を超えました。
 

大田区ならではの地域のつながり

ずっと大田区で操業されていますが、地域のつながりは強いですか?

飯室社長:地域の仲間に助けられている実感があります。私は蒲田工業組合の副理事長を務めています。同じ製造業のいろいろな人に出会えるのが特徴で、20代後半から参加していますので30年近くもお付き合いをしていることになります。情報交換も活発で、一緒にゴルフに行くなどプライベートでもよく会います。

そうしたところで交流を深めていくことで、技術面の問題や繁閑の都合などで困ったときに、誰それにお願いをしようと互いに助け合い、仲間同士で仕事を回していくことができています。そういったコミュニティがあるところが大田区の長所だと思います。

大田区の事業者が合同して展示会に出展している

 

地域貢献活動はされていますか?

飯室社長:当社では中学生向けの職場体験の受け入れをしています。大田区の全校でやっているもので、当社では毎年時期をずらして2校ぐらいから、2~3名ずつを受け入れています。
また、東京都立六郷工科高校のデュアルシステム科というところからも毎年職場インターンを受け入れています。学校と企業が連携して、ものづくりの職業人を育成することを目的とした学科で、企業実習が単位として認められていて、2年生と3年生はおそらく2カ月ぐらいずつインターンシップに出ているはずです。当社では毎年1名程度を受け入れて、完全に一緒に1日8時間仕事をして、実際に顧客に納入する製品も担当してもらいます。
自分も中学生から手伝いをしているので、中高生に教える勘所というのはわかっているつもりです。
最近は高専でも教えていて、子供の頃の手伝いが意外なところで役に立っています。

中学生職場体験に協力をしている

 


会社名 株式会社富士テクノマシン

業種   精密機械部品加工及び組立て

設立年月          1977年5月

資本金              10,000,000円

従業員数          8人

代表者              飯室 肇

本社所在地      東京都大田区南蒲田2-19-6

電話番号          03-5703-3566

公式HP           https://www.fuji-tm.co.jp/index.html

この記事の著者

齊藤慶太

齊藤慶太中小企業診断士

2020年5月中小企業診断士登録 東京大学大学院卒業後、ITコンサルタント、メーカー海外工場駐在・経営企画を経て現在はIT企業で新規事業開発に携わる

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