- 2026-8-4
- 取材・インタビュー
異色の経歴から飛び込んだ切削の世界と、町工場の歩み
有限会社東蒲機器製作所は、金属切削加工を得意とするプロフェッショナル集団です。第一回は、同社の事業内容や沿革、現代表取締役社長のこれまでの歩みについて、四代目、代表取締役社長の髙橋俊樹氏にお話を伺いました。

工場内で笑顔を見せる髙橋俊樹社長
特殊土木を牽引し、日本全国のインフラを足元から支えた黎明期
-まずは、創業から現在に至るまでの歩みを教えていただけますか。
髙橋氏:私の祖父が蒲田で創業し、当時は工作機械の製造や、金属加工も行っていた工場でした。祖父が早くに亡くなったので、祖母が短期の二代目社長として繋ぎ、三代目として私の父(現会長)が引き継ぎました。父の代が最も長い期間で、ここで切削専門の金属加工業として確立しました。基本は切削加工を中心とした事業ですが、お客様の要望で設計からアッセンブリー(組み立て)までやって納めることもあります。
-切削専門として、昔はどのような分野の仕事をメインにされていたのですか?
髙橋氏:建築、橋梁、道路、港湾といった多岐にわたる土木現場の中でも、主な分野は「特殊土木」と呼ばれる分野の部材加工です。建物の基礎や、山の斜面が崩れないように杭を打つ「アンカー」という工法があるのですが、その「頭部部材」の加工を専門にやってきました。日本の高度経済成長期には公共事業が重なったこともあって、需要が爆発的に増えました。当時はこのアンカー部材のシェアを数社が独占する状態だったので、当社が納めた部材も日本全国の現場で使われ、最盛期には月に数千台という規模で製品が出ていきました。私が子供の頃は人員が足りず、工場でボール盤での穴あけを手伝ったり、面取りをしたり、箱詰めを手伝ったのをよく覚えています。
-日本全国のインフラの土台を、足元から支えていたわけですね。
髙橋氏:そうですね。土木の仕事はバブル期まで非常に堅調に推移していました。東京の工場だけでは生産が追いつかなくなり、1993年に新潟に工場を新設したんです。しかし、これからというタイミングで、バブル崩壊の影響が直撃しました。さらに、追い打ちをかけるように、それまで当社の売上の9割を占めていた土木部材について、主要なお客様が生産を中国にすべて移すことに決めてしまいました。売上の大半を失い、2000年代前半には一時、民事再生手続きを申請しました。当時は、鉄道関係の仕事がそれまでの売上の1割に満たない程度に落ち込みました。私が四代目の社長に就いてからは、「土木一本に依存していてはダメだ」と、意図的にお客様を分散させる変革を始めました。

現在の東蒲機器製作所
文系出身の牛乳メーカー営業マンが、実家の危機で決意した急転直下の転身
-髙橋社長は、学校を卒業してすぐに家業に入られたのですか?
髙橋氏:すぐに家業には入っていないどころか、この会社に入る気はあまりなかったんです。2人の兄が既に会社に入っていましたから、自分が入る余地はないと思っていました。大学は文系の経済学部に行き、新卒で食品メーカーに入ったんです。そのメーカーの東京営業所でレストランを回るルート営業を3年間やりました。毎朝、牛乳や生クリームを車につみ込んでお店にお届けする仕事です。

製品のこだわりを話してくださる髙橋俊樹社長の写真
-そこからなぜ、金属加工の世界へ入ることになったのでしょう?
髙橋氏:会社が民事再生手続きを申請して裁判所の管理下にあったときに、新潟の工場のトップが腰を悪くして辞めることになりました。それで父から、「会社に入り、新潟の工場のトップがいないから、新潟に行ってくれ」と頭を下げられました。営業の仕事にやりがいを感じていましたが、家業をなんとかしたいという思いで、会社に入ることを決意しました。急転直下の転身でしたね。
誰も動かせない横型マシニングセンター。夜間学校と工場を往復した格闘の日々
-民事再生のタイミングでの入社ですか。文系出身で、現場の知識もゼロからのスタートだったわけですよね。
髙橋氏:何もわからない状態でした。新潟工場に行っても肝心の仕事がないので、週の半分は工場の掃除をしていました。見よう見まねでプレートに穴を開けてタップを立てたりして、のんびりと3年ほど過ごしました。しかし、今度は東京の本社工場で、マシニングセンターを回していた叔父(当時の専務)が父と意見が対立して急に会社を辞めることになり、新潟でマシニングセンターを少し触っていた私が、急遽蒲田に戻されたんです。叔父との引継ぎの期間はわずか3ヶ月しかありませんでした。
-わずか3ヶ月で大型機械を動かせるようになるものですか?
髙橋氏:動かせるわけがないですね(笑)。マシニングセンターといっても、叔父が動かしていたのは横型のマシニングセンターで、私が新潟で触っていたものは縦型のマシニングセンターでした。叔父の段取りを見て、既存製品の加工はできても、新規の仕事が来たらプログラムの組み方も、機械の動かし方も全くわからない。工場長は旋盤一本の人だからフライスはわからないし、父も汎用機はできてもマシニングセンターが導入された頃には社長業をやっていたから現場がわからない。つまり、誰も動かせない機械が工場にポツンと残されてしまったんです。でも納期は来てしまうから、間に合わない。

東蒲機器製作所で稼働しているマシニング
-その大ピンチをどう切り抜けたのですか?
髙橋氏:当時私は20代でしたから、力技ですね。昼間は既存の仕事を必死に回して納品に行き、夜は都立の技術専門学校に通って、NCフライス盤の勉強を全力でやりました。授業が夜の21時に終わったら、そこからまた蒲田の工場に戻って、深夜0時まで一人で機械を回すんです。素人がやってるから時間がかかるんですよ。プログラムがわからないところは、翌朝メーカーのサポートに電話して「これどうやって動かせば良いですか?」と聞きながら覚えました。工具交換のシリンダーから油がビュービュー漏れたときも、メーカーから部品だけ送ってもらって、狭い機械の隙間に体を無理やりすべり込ませて、自分で直したこともありました。あの無我夢中の格闘が、私の技術屋としてのベースになっています。

マシニングの段取作業をおこなう髙橋俊樹社長
業種 金属切削加工
設立年月 1953年(昭和28年)
資本金 300万円
従業員数 10人
代表者 髙橋 俊樹
本社所在地 東京都大田区東蒲田1丁目13番10号
電話番号 03-3731-7056
公式HP https://www.toho-kiki.com/


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